連載小説 第14回4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

ペンネーム    桜田ももえ

<これまでのあらすじ>上諏訪時計舎6年目のIC営業部海外営業課の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを売っていますよ。海外はアメリカ担当。海の向こうに赴任中のイケメン島工作君は、みんなに人気の美結チャンと結婚しちゃいました。オフィスの隣の机には同期のトム君が座っていますが、イマイチおちゃらけ者です(笑)。

第14話  米国顧客向け半導体ビジネスも伸びてきました

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、文系ですが技術製品(半導体)を販売するIC営業部の海外営業レディです。私は同期の富夢まりお(トムマリオ)君とともにアメリカ市場を担当しています。なお、トム君は名前の割に純ジャパです(笑)。米国法人へ赴任した島工作君をサポートしたり、アメリカから訪問して下さる多くのお客様をサポートしたりしています。でも、島工作君は美結チャンと結婚しちゃったんだなあ・・・。ま、いっか(涙→笑)。

その年1985年といえば、日航機が墜落し、500人以上が命を落とすという大事故も起きてしまいました。「上を向いて歩こう」の坂本さんも犠牲者の一人になってしまった事をご存じの方もいらっしゃるでしょう。

その年に目雅子さんも天国へいきました。この頃の白血病は不治の病というイメージでしたが、最近では発病後なんと1年ちょっとで競技に復帰してしまったアスリートもいるような時代になりました。強くてチャーミングな競泳のイケー!選手ですね。この間の医療の進歩には本当に目を見張るものがあります。感謝です。

一方、聖子ちゃんは聖輝の結婚をし、お幸せに!という年でもありました。その後、シングルマザーになられるのですが、ま、それはそれとして・・・。

日本は高度経済成長を極めていました。プラザ合意で1ドル235円が150円台に急激に変わるというような極端な円高に振れる中、それでも日本の製造業は強く、アメリカから執拗なプレッシャーを受け続けていました。バブル前夜です。

この年、NTTからショルダーフォンという携帯電話が発売されました。この時は携帯といってもかなり重くて大きく肩掛けでしたから、普及には至りませんでしたが、その後、我々の殆どが使うようになった軽くて小さい携帯電話やスマホの先駆けとなりました。

あ、1985年といえば、おニャン子クラブの誕生を忘れてはいけませんね。その後、AKBや乃木坂をブームにした秋元康先生が仕掛けたグループで、先生自身も売れっ子になっていきました。

さて、私といえば、アメリカ向け半導体営業レディとして力がついてきた入社6年目です。仕事ができるようになって面白くやってきたのはいいのですが、私も結構いい年になっており、将来の事を考える機会も増えていました。何故なら、周りの同期さんたちも次第に結婚して新しいステージに踏み出す人が増えてきたからです。かなり気になっていた島工作君なのに彼も結婚してしまいました。アメリカと日本の遠距離恋愛を成就してラブリーな彼女をカリフォルニアの空の下へ迎え入れてしまったのです。

我々は後発の半導体メーカーでしたが、今考えれば、かなり大きなお客様と仕事をしていたと思います。同期のトム君はFPGAのペケリンクスや赤白黄色のRC社を担当していましたし、私はその頃になると世界の大手コンピューターメーカーであるHAL社向けにSRAMモジュール開発の仕事に携わっていました。現地では我々の米国法人であるSS-Systems Inc. がHAL社との折衝をしてくれていました。ローカルメンバーが主体でしたが、島工作君は特に日本との調整役としてHALプロジェクトチームで活躍していました。

HAL社の拠点は全米各地にありましたが、そのプロジェクトを扱っていた事業部はフロリダにあり、島工作君も頻繁にサンノゼからフロリダ方面へ出張していました。西海岸から東海岸、時差3時間の移動ですから、それは大変だったと思います。でも、みんな若くてバイタリティに溢れていた頃で、多少の無理は無理とも思わない時代でした。

HAL社はもともとメインフレームのコンピュータを主柱事業としていましたが、1980年代半ばから本格的にパーソナルコンピュータ(PC)を開発していきました。巨大なコンピュータの性能までは必要としない用途には、机の上にあって人々が普通に使いこなせるサイズのPCが一大ブームになっていきます。これに伴って、半導体産業は急速に成長を遂げました。特に心臓部のCPUを作っていたIntelやAMDがICメーカーの中でも主導的な役割を演じていましたが、我々上諏訪時計舎のような後発半導体メーカーであっても、メモリーICやグラフィックコントローラーなど周辺部分のニーズを拾い上げる事が出来たため、多大な恩恵を被る事となり、我々の半導体事業は急速に成長していきました。

ただ、我々のメモリーICのラインアップは限定的で、何よりDRAMをもっていなかったため、ICの製造量では他社に後れをとっていきます。Flashが誕生するのはまだ先でしたが、そこでも我々は勝負できませんでした。結局、ニッチ戦略をとるしか道はなく、大手半導体メーカーがあまり力を入れていない分野で戦っていく事になります。

しかし、だからと言って大手半導体メーカーが幸せだったかというと必ずしもそうでもありません。特に日本の半導体メーカーは20世紀と21世紀では様相が大きく異なっていきます。

その辺のお話は、しばらく後にお話しする事になると思います。

何しろ、大河小説なので・・・。

 

 

 

 

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