連載小説 第39回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

Momoe Sakurada
ペンネーム
桜田モモエ

<これまでのあらすじ>

サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。わけあって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICの営業担当でしたが、平成元年になった1989年、とうとう、現地法人のSS-Systemsへ海外赴任しちゃいました。同期の工作君とトム君も一緒に赴任中。黄金時代でしたね。

 

 

第39話  食べるのも仕事、でも重くなる

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の10年目。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任しました。しかも、同期の富夢まりお君も一月遅れでジョインしました。そして、同期の島工作君も赴任中。しかも、工作君の任期は2年延長となり、3人一緒です。何てステキ!

アメリカで新年を迎えました。1990年です。このあたりから日本の色々について、私にとっては少々空白期間があります。さすがに住んでいないと分からない事ばかりですので、私の人生における日本実感欠落の時期です。

アメリカに住んでいてもある程度日本の情報は入ってきます。むしろ、インターネットも普及していなかった時代であったにも拘わらず、かなりの日本情報が入ってきていました。この時期には普及していた衛星通信のおかげで、毎日、アメリカで印刷された日本の新聞が届きますし、少しですが、日本のテレビを見る事もできました。サンフランシスコに日本人向けテレビを放映するローカル局があってサンノゼを含むベイエリアに配信されていたので、朝ドラや他の番組を時間差で視聴する事ができていました。加えて、レンタルビデオが普及し始めていたので、ヤオハンで日本のドラマのVHSビデオを借りる事もできたのです。ですから、日本のトレンディドラマなども周回遅れで見る事ができました。まだ、DVDではなかったですねえ・・・。

 

1990年といえば、ラトビア、リトアニア、エストニア等ソ連の各国が次々に独立し、事実上、ビエト邦社会主義共和国が崩壊した年です。また、ドイツでは10月3日に東西ドイツが統合され、世界的に大きな時代の変化がありました。因みにこの年、ゴルビー(ゴルバチョフさんですね)はノーベル平和賞を受賞しました。

日本はというと、それまでのバブルが一挙に破裂したのが1990年です。1989年末に38,957円まで記録した日経平均株価は1990年には一時20,000円を割り込むなど、一挙に「失われた30年」へと突入していきます。それまでの高度成長がウソのように後退し、その後30年間というもの、経済成長は低迷。ひいては成長のエンジンでもあった半導体産業は急速に衰退していきます。

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と平家物語でうたわれた通り、永遠に輝き続けるモノは皆無なのであります。この大河小説ではこれからその栄枯盛衰を語らなければなりません。

しかしまだこの頃は、日本の半導体はバブルが弾けたにしても、それには関係なくイケイケだと思われていました。その輝きが失せていくと知るのは十数年先の事です。

SS-Systemsのビジネスの柱は、メモリーIC、MCU、ASIC、シリコンファンドリー等でした。トム君率いるLiaison Departmentでは、どのビジネスとも関係して日本との調整などを行っていました。加えて、アメリカの顧客向けに販売するICを日本の半導体事業部から購買する機能をもっていましたので、このオペレーションは日々大変でした。必要なだけ間違いなく発注し、納期通りにデリバリーして貰わなければならないのです。半導体製品に納期遅れはつきものでしたから、尚のこと大変です。時には品質問題も起きるので、その調整も一苦労でした。

現地法人の設立当初は島工作君がビジネス開拓だけでなく、一手にオペレーション機能も引き受けていて、てんやわんやだったのですが、我々が赴任してからは、ローカルスタッフを何人か雇ってオペレーションの実務は任せるようにしました。その分、マーケティング、ビジネス開拓、経営の企画管理などに力をさく事ができるようになったのです。

ほぼ毎日、日本から出張者が来ています。扱う製品やビジネスの間口が広いので、複数の部署から出張があり、それらが同時平行的に発生します。我々も手分けをして、ローカルとの間で様々な打合せや調整を行い、出張者の客先訪問を段取ったり同行したりするのですが、なかなか追いつかない時もありました。

それでも、なんだかんだでやりくりして夕方になると、さてそれでは食事に行きましょうか、という事になります。多い時は5名~10名の出張者を一度にテイクケアしなくてはなりません。会食のない日は少なく、土日もテイクケアがあったりするので、家族の時間が取れない赴任者も多くいました。しかし、それはそれで充実感があり、トム君も工作君も生き生きとしていました。私も、仕事して会食して情報交換して、土日にはテイクケアで現地を案内したり、しばしばゴルフにもつき合ってみたいな生活でした。それでも、なんともしい時期だった事を覚えています。土日も含めて全て仕事だとすれば、人生の中で一番仕事をしていた時期かも知れません。

シリコンバレーには世界中の人々が集まってきているので、世界中の料理を味わう事ができました。最も頻繁に通ったのは日本料理のレストランですが、時にはChinese、時にはAmerican、時にはインド料理、時にはItalianと、食べ放題の日々でした。

実は太りました、私。

何キロ太ったかって? それはお聞きにならないでください。

偶然、とあるレストランで久し振りに出会ったあの方が最初は私だと気づいてくれなかった程です。

あの方、ってどの方かですか?

それは、ネタバレになってしまうので全部はお話できませんが、第32話の明治神宮において、まるで「君の名は」のように離ればなれになってしまったあのお方です。

え、ほぼ全部言っちゃった?

まあ、それもこれも次回以降のお楽しみという事で、うふ・・・。

 

 

第40話につづく

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