連載小説 第100回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

Momoe Sakurada
ペンネーム
桜田モモエ

<これまでのあらすじ>

サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを販売する米国現地法人のSS-Systemsへ赴任していましたが、夫の倫ちゃんのドイツ転職を機に、私もミュンヘンにある現法へ異動しました。ヨーロッパでは携帯電話の普及というビジネスの波が起こっていました。我々の半導体製品もその波に乗って大忙しです。そこへ、一度は別々の職場になったと思ったトム君が緊急赴任して来ちゃいました。あら、また一緒ですねえ。うふっ。

(日本半導体の栄光と挫折?『詠人舞衣子』総目次はこちら

 

第100話 記念すべき第100回

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の16年生。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任し、今度はヨーロッパの現法へ異動しました。ドイツのミュンヘンで倫ちゃんとの新しい生活がスタートです。新婚さんみたい。うふっ。そこへ、同期のトム君も赴任してきちゃいましたよ。

 

とうとう第100話です。

思えば、長かったですねえ。第100話に到達するのに、何と、2年もの歳月を費やしたのでした。まあ、計算は合っていますね。毎週1回の連載ですから100回には2年かかります。

その間の物語の進展は1979年から1996年までの17年間。思い返せば、涙と笑いの17年でした。(ほとんど笑いばかりでしたが(笑))。まあ、ざっと言って、日本の半導体産業は絶好調の時代です。我々は様々な事にチャレンジできて自身の成長を感じることができましたし、発展する社会に生きる有り難みを享受していました。

ワタクシ詠人舞衣子は、日本で9年間、アメリカのSS-Systems Incで6年間仕事をしてきました。そして、今はドイツはミュンヘンのEdison Semiconductor GmbHです。

そもそも、誰もが海外赴任のチャンスを得られる訳ではありません。たまたま営業部に配属になり、海外市場を担当する事になった事で、いち早く海外で仕事をするチャンスに恵まれたのですから、地方企業の上諏訪時計舎に入社した事が今では本当に幸運だったと思います。私って見る目があったんですねえ(笑)。

見る目があったと言えば、夫の青井倫吾郎(倫ちゃん)と一緒になれた事も私の見る目がなせる業?だったでしょうか(笑)。こんなにステキな人にはそうそう巡り会えないと思っています。倫ちゃんがソミーミュンヘンへ転職した事がきっかけで、私もミュンヘンへ赴任する事ができた訳ですから、色々なラッキーにも恵まれたのだと思っています。

それと、同期入社の富夢まりお君(トム君)と島工作君とも長いつきあいになりました。特にトム君はいつまで経っても同じ職場です(笑)。若い頃は(今でも若い積りの37歳ですが(笑))トム君や工作君にちょっと気持ちが動いたりもしたものでしたが、それぞれの道を歩んでいます。今では、本当に気が置けない仲間だと感じています。

私自身は早慶大学文学部心理学科卒業のバリバリの文系なので、最先端を行く半導体は門外漢もいい所なのですが、なんの因果か理科系科学によって成り立っている電機電子産業のまっただ中にいる事になってしまったわけです。まあ、たまたま私自身が、ある言えない事情によって4ビットAIを内蔵しているという少々特殊な設定であるためか、上諏訪時計舎で一番最初に担当した半導体は4ビットマイコンだったという因果もありました。

その後、サイコーエジソン株式会社と改名して会社規模も大きくなり、半導体事業は、マイコンに加えて、メモリーIC、ゲートアレイなどのロジックIC、FPGA用のシリコンファンドリーなどによってビジネスを伸張させてきました。

世界の半導体需要は伸び続けていて、特にパソコン関連、通信/ネットワークなどの分野が需要を牽引してきました。加えて、携帯電話市場が急速に立ち上がってきたため、ここでも大きな伸びが期待されています。

世界の半導体事業に目を向けると、アメリカが圧倒的にリードしていた時代から、日本の製造力が優位性を発揮する時代を迎え、一時は日本の生産が世界No.1になりました。1980年代後半の事です。日本の電機電子メーカーの殆どが半導体事業を手がけ、世界のトップ10の5~6社が日本メーカーで、NEC、東芝、日立が金銀銅表彰台独占という年が続きました。我がサイコーエジソン株式会社の半導体事業も世界20位くらいにいて表の片隅に載った頃です。今では夢のようですが、本当の話です。

アメリカによる日本バッシングもありましたが、それにも負けずに日本の半導体産業が伸び続けていました。製造力では他のどの国にも負けていませんでした。

今から振り返ると隔世の感がありますが、日本経済も “バブルへGO!! ” な感じでしたので、何もかもイケイケでした。そのイケイケな時代に生きた私たちはある意味幸せでしたね。2020年代の今の若者たちはバブルを経験していないので、少々違った価値観になっているようです。

日本は1990年にバブルがはじけ、いったん低迷の時代を迎えますが、それでも、ある程度バブルの整理がついてからは、やはり豊かな経済に恵まれていたという感があります。

という訳で、第100回記念はこれまでの100回を振り返ってみました。第100話をお読み頂ければ、これまでの1979年~1996年の概要は、ほぼお分かり頂けるかと思います。

色々ありましたねえ。振り返ってみると、しみじみ懐かしく、そしてスゴいです。スゴい時代を皆とともに生きてきたのだと感慨深く思い出されます。

さて、次回からは、1996年に戻ってお話を進めて行きたいと思います。長いですねえ。でも、なんてったって、我が国の半導体産業の栄枯盛衰を描く大河小説ですから(笑)

 

 

第101話につづく

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“連載小説 第100回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出” への1件の返信

  1. 連載100回なんだ、おめでとうございます!!
    半導体ビジネスとしてゲーム機から携帯電話まで、低消費電力の日本の半導体の「全て!」を語れるのが凄いや。
    座布団100枚!!

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