連載小説 第115回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

Momoe Sakurada
ペンネーム
桜田モモエ

<これまでのあらすじ>

サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICの営業に携わっています。米国現地法人のSS-Systemsを経て、今はミュンヘンにあるヨーロッパ現地法人のEdison Europe Electronics GmbHに勤務しています。世界中で携帯電話の普及というビジネスの波が起こっていました。我々の半導体製品もその波に乗って大忙しです。そこへ液晶表示体と水晶製品のビジネスも統合され、更に大忙し。そんな中、私にもとうとう子どもが授かって・・・。

(日本半導体の栄光と挫折?『詠人舞衣子』総目次はこちら

 

第115話 売上げとリスク

 

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の19年生。文系ですが技術製品(半導体などの電子部品)を販売しています。アメリカの現地法人SS-Systemsを経て、ヨーロッパの現法へ異動しました。ドイツのミュンヘンで倫ちゃんと新しい生活です。そこへ、同期のトム君も赴任してきて、Edison Europe Electronics GmbHとしてスタート。トム君は海ちゃんとご結婚となり、更にご懐妊に。私も、よわい39歳にして、とうとう出産しちゃったんです。うふっ。

 

10月3日に子どもが産まれて、順調に育ちましたので、私は4月から職場復帰する事になりました。1998年です。

1998年といえば、長野冬季オリンピックがあった年です。その開会式では、事もあろうに、会場で御柱を再現してしまうというチャレンジに出て、世界中の人々が一体何のこっちゃ?と首をかしげたのではないかと思っておりますが、我がサイコーエジソン株式会社のある諏訪市のお祭りが世界に紹介されたのは画期的な事だったと思います。

サッカーのワールドカップフランス大会が行われたのもこの年です。日本代表が初めてワールドカップに出場した大会です。その前のアメリカ大会にはドーハの悲劇によって出場が叶いませんでしたので、グループリーグ0勝3敗ながら、日本サッカー界の快挙でした。

Windows98が出たのもこの年のことでした。Windows95と何か違うのかと言われても、文系でゴメンねの私には良く分からないのですが、なんでもインターフェイスが進化しているのだとか。まあ、95でも98でも、さくさくと止まらずに動いてくれればいいわけですね。

あ、1998年にはもう一つ事件がありました。ビル・クリントン米国大統領のホワイトハウス実習生との不倫事件です。不倫だなどという言い方はあまり美しくないでしょうか。モニカ・ルインスキーさんという東欧系ルーツのアメリカ人女子学生の方と不適切な関係になってしまったらしいのですが、大統領執務室でそんな事をねえ・・・。まるで映画見たいですよねえ・・・。

それでもって、下院では弾劾訴追という事になったらしいんですけど、上院では否決されて、無罪放免という事になったらしくて、一体全体アメリカって国が未だによく分かりません。

さて、そんな1998年。携帯電話市場は相変わらず加熱気味で、多くの引き合いを頂いていたのですが、一本調子の需要過多ではなくなり、ある日突然、注文がキャンセルになるという事態が起こるようになっていました。それは、機種のEnd of Lifeがいつどのように訪れるか分からないという問題によるのでした。いっぱい売れると予測してガンガン製造したら、突如売れ行きが落ち、急遽製造をストップするというような事がそこかしこで起こるようになってきたのです。

メーカー間の競争においても、誰が勝つか分からない状況の中で、どのくらいの数量が売れるかを予測する事はほぼ不可能と言っていいでしょう。電子部品の調達は、リードタイムが長いもので3ヶ月くらいはかかりますから、売上げ予測が外れた時には、既に発注がされており、それを無理矢理キャンセルするという事態が頻繁に起こるようになりました。

そして、機種変更も頻繁に行われるので、同じ製品を長く作り続ける事がありません。機種が変わると使用する電子部品も変わります。電子部品メーカーは携帯電話メーカーの数量変動に悩まされ続ける事になります。

売上げ金額は莫大なのですが、数量変動による無駄な在庫発生も隣あわせの状態で、殆ど悪夢のような日々になっていきました。

それによるかなりのロスを強いられる事が多くなっていきました。一番大きかったのはドイツのS社向けの液晶モジュールビジネスでした。かなり無理して受注したビジネスで、液晶モジュールを製造するための部品をEEEGが調達しなくてはならないという変則的なやり方だったため、キャンセルを受けた時の責任の所在をS社に求める事が難しく、自分でかぶるようなビジネスモデルでした。

結局我々が巨額の負債を抱える事になり、それを何とか処理しましたが、利益はあっという間に吹っ飛びました。無理してビジネスを取ってくる営業を制御できなかったマネジメントの責任なのですが、ある程度のリスクを取らなければビジネスも取れないというジレンマの中で事業を行っていたため、必要悪的なビジネス状況でした。

何でも受注にこぎ着けたいローカルのセールスと、リスクを最小限にしたい経営側の日本人の間には基本的に利益相反があり、そもそも大きな失敗が起こる可能性があったのです。

更にもう一つ大きな損失を被ったビジネスがありました。フランスはルマンにあったP社向けの携帯電話液晶モジュールビジネスです。P社はオランダに本社を置くヨーロッパ屈指の電機電子メーカーで、ご多分に漏れず、携帯電話にも手を出していました。P社の携帯電話はある程度は売れたのですが、メジャーではないため当初の予測ほどは売れず、ある日突然のキャンセルを言い放って、我々電子部品メーカーを窮地に立たせました。ジェットコースターのように、上へ行ったり下へ行ったりの波が大きすぎて、翻弄されるばかりでした。

結局、勝ち組はエヌキアだけで、他の携帯電話メーカーはその狭間でもがき苦しんでいたと言っていいでしょう。この頃の日誌を紐解いてみると、実に様ざまな事が書かれていて、我々もよく頑張っていたのだという事が分かります。

売上げは上がるけれど、変動の大きいビジネスにどう対処していくかが大きな課題でした。

 

 

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