<これまでのあらすじ>1980年に上諏訪時計舎に就職した詠人舞衣子(よんびとまいこ)。わけあって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒の文系女子なのに、半導体営業課マイコンチームに配属。4ビットマイコンを売り始めました。家電もゲーム機も電子化が進み、多くの機器にICが使われるようになっていった頃です。
第9話 液晶ゲーム用に4ビットマイコンが売れた!
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、文系ですが半導体営業課の営業レディです。当社で開発した4ビットマイコンが売れ始めました。
私はヨネットイ株式会社という古くからある玩具メーカーに4ビットマイコンを採用して頂きました。どのくらい沢山注文頂けるのだろうと心配していましたが、彼らには私などが思いつかない差別化差戦略がありました。
それは、キャラクター商品として売る事だったのです。もともと、様々なおもちゃを作っていたメーカーですから、子どもに人気のキャラクターは既に手掛けている訳で、それを液晶ゲームに水平展開したという事でした。もし、先行していた任天堂のゲームウォッチに勝とうと考えるのならば、例えば、ドラえもんを主役に仕立てて、ドラえもんが活躍するゲームを作ればいいのです。ヨネットイの契約していたキャラクターはドラえもんではありませんでしたが、同じ藤子不二雄先生たちの関連キャラクターで、子どもたちには大人気でした。
ゲームの内容としてはそれほど画期的ではないゲームであっても、キャラクターにつられて購入したいと考える子どもたちは多数いました。事実、その4ビットマイコンは累計で100万個近く販売する事ができ、売上げも数億円に達したのです。
私はIC営業部(その頃には課から部へ格上げされていました)でマイコン担当としてとりまとめを行っていましたので、日本のお客様だけでなく、海外のお客様についてもプロジェクトリストを毎月作成し、事業部の方々とも共有していました。また、既に量産化したプロジェクトを含めておおよその必要生産数量をはじき出し、今後数ヶ月の予測として提出していました。それは、生産準備の予測としても使って頂きましたし、売上げ予測としての資料にもなりました。
今になって考えると、販売予測を立てるなどというのは当たり前の事でしょうが、当時は誰から指示された訳でもなく、最初は全体が分かるような資料があればいいなと思って自分たちのためにまとめただけの事でした。IC営業部の仕事が試行錯誤の繰り返しで、まるでシステマティックでなかった時代です。
しかしながら、その資料は、マイコン営業の状況がとても良く分かるようになったと非常に好評でした。まだ、2年目で新人に毛が生えたみたいなものでしたが、褒められると嬉しいですし、売上げも順調に増えてきて、結構イケイケな時期でした。
翌年(1982年)になっても、液晶ゲームのブームは続いていて、上諏訪時計舎製の4ビットマイコンは結構売れていました。デジタルウォッチ用のマイコンを新しく開発して製品のラインナップも増え、少しはマイコンICメーカーらしくなってきました。
1982年といえば、NECがPC-9801(16ビットCPU搭載)を発売したという年でした。さかのぼること、1979年にリリースされたPC-8001が日本初のPCと言われています。最初のPCは8ビットCPU 、メモリは16K(キロ!)Bまたは32KBという製品でした。日本にもパーソナルコンピュータが生まれたという頃です。
1982年にはもう一つエポックメイキングな製品が生まれています。SONYのCDプレイヤーです。音の収納場所がカセットテープからCDに移行していきました。しかし、そこには媒体が進化したと言うだけではない画期的な変化がありました。それはデータがアナログからデジタルへ変わったという点です。世界を変えた製品といっても良いでしょう。今ではもうCDって何?という若者が多いのではないかと思います。デジタル化されたデータの多くはCDやDVDの中ではなく、クラウドやスマホの中にあるというのが現代の姿でしょう。
私のマイコン営業に話を戻しましょう。
N天堂さんへ売り込みに行った時の話です。
液晶ゲームの分野で最強だったN天堂さんからは相手にもされないだろうと、最初は売り込みに行く事を考えもしませんでしたが、上諏訪時計舎も少々売上げの実績がついてきたので、ダメモトで営業に行ってみようという事になり、関西の代理店を通じてアポ取りにトライしました。十両が横綱に胸を借りるような感じです。
学生時代の旅行以来、久しぶりに京都駅へ降り立った時には、いよいよN天堂だ!と気合いが入ったのを覚えています。それまでN天堂の液晶ゲームには同じく関西の奈良にあるICメーカーの4ビットマイコンが使われていると言われていました。営業もマーケティングも科学的にできていなかったIC営業部の私たちには、N天堂攻略の作戦も明確にはありませんでした。どうせ、奈良のICメーカーとがっちりタッグを組んでいるのだから、無理だろうなと最初から諦めてしまっていたのです。しかし一方で、N天堂に採用されれば、一桁も二桁も大きな数量が見込めると分かっていましたから、チャンスが少しでもあるのならトライしなくてはとも思っていました。
門前払いに近いかなと思っていましたが、N天堂さんの反応は予想外でした。この続きはまた次回お話しますね。