<これまでのあらすじ>上諏訪時計舎6年目のIC営業部海外営業課の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを売っているんですよ。同期のイケメン島工作君もオチャラケ富夢まりお君も、私との恋愛スイッチをオンしないまま、別のトランジスタを形成してオンしちゃいました。ちょっと残念だけど、ま、仕方ないですね。私もそろそろ恋しちゃおっかな(うふ)。
第17話 日本の半導体産業は世界1になった!
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、文系ですが技術製品(半導体)を販売するIC営業部の4ビットAI内蔵営業レディです。私は同期の富夢まりお(トムマリオ)君とともにアメリカ市場を担当しています。なお、トム君は名前の割に純ジャパです(笑)。米国法人へ赴任した島工作君はご結婚、そして、私と机を並べる同期のトム君もご結婚しちゃいました。ちょい、焦りますよね。
1986年のお正月を東京の実家で過ごしたあと、特急あずさで上諏訪へ帰ってきた私。仕事は楽しいけれど、恋愛は進んでいません。でも、母親との新年の座談会では、そろそろ真面目に取り組むか、って話になっています。あては具体的にはあんまりないんですけど。
さて、1986年といえば、バブルが本格化してきた年です。少年隊が仮面舞踏会という後世に残る楽曲をひっさげて活躍し始めた頃でもありました。その後、トム君たちの持ち唄になって今だに歌い継がれているので、よく覚えています。
それと、この年「くちびるNetwork」がヒットしていた岡田有希子ちゃんが命を絶ってしまったのは衝撃でした。私はそっち側の人では多分ないので、よく分からないのですが、世の中に悩んでしまう人は少なからずいるようだと気づいた頃でした。
“毛玉とるとる”という画期的商品が飛び出したのもこの年です。すごいローテクなのに、珠玉のアイデア商品でしょう。関連企業のセイコーがこれを生んだというのも拍手ものでした。
ドラクエが生まれたのもこの年。RPG(ロールプレイングゲーム)が世界に認知されていきました。
もう一つ忘れてならないのは、チェルノブイリ原発の事故が起こった事です。日本はバブル、世界も経済拡大していましたが、人間の傲慢さのツケが回ってきたという事でしょう。しかし、事の重大さに気づいていた人は少なかったかも知れません。25年後の3月11日に至るまでは・・・。
半導体業界に話を戻しましょう。1986年には何と日本がアメリカを抜いて半導体売上げ世界1位となりました。世界シェアの50%近くを取るにまで成長したのですから、スゴイ事です。当時のランキングを見ると、日本の電機メーカー6社がトップ10に入っています。アメリカと違って半導体専業メーカーは一社もありません。全て垂直統合型の電機メーカーです。その後の没落ぶり(残念)を考えると隔世の感があります。
順位 1981年 1986年 1989年
1 TI (米国) NEC(日本) NEC(日本)
2 Motorola(米国) 東芝(日本) 東芝(日本)
3 NEC(日本) 日立(日本) 日立(日本)
4 Philips(欧) Motorola(米国) Motorola(米国)
5 日立(日本) TI(米国) TI(米国)
6 東芝(日本) NS(米国) 富士通(日本)
7 NS(米国) 富士通(日本) 三菱(日本)
8 Intel (米国) Philips(欧) Intel(米国)
9 松下(日本) 松下(日本) 松下(日本)
10 Fairchild(米国) 三菱(日本) Philips(欧)
我が上諏訪時計舎もこの頃は世界のトップ20くらいに入っていました。スゴイ事です。三洋、シャープ、沖電気などもランキングに入っていました。ソニーもその後ランキング入りする事になります。とにかく、日本の電機電子メーカーはほぼ全てです。楽器やバイクのヤマハだって半導体作ってましたし。
我が社は結局、その後は一度もそれ以上のランキングにいきませんでしたが、その頃は半導体産業の中にいれば、ずっと安泰だと思い込んでいました。アサハカでしたね。
因みに上諏訪時計舎の名前もそろそろ終焉を迎えようとしていました。時計産業はすっかり様変わりして、一昔前の機械式時計は過去のものとなり、クオーツ時計は水晶の発振素子とICさえあれば、殆ど誰でも作れるような製品になっていました。上諏訪時計舎では、時計事業よりプリンターや半導体事業等の方へ売上げの比重が移りつつあったため、分社化していたプリンター事業を再統合して、社名も変更しました。新しい社名は「サイコーエジソン株式会社」。自分で最高!というのも何ですが、その頃は本当に最高!って感じでした。何てったってバブルでしたから(笑)。
それと、発明王のエジソンが最高だったのは間違いないです。
男女雇用機会均等法が成立したのも1986年です。あら、また半導体じゃない話ですね。この法制によって、その後の日本の女性活躍に道筋が出来たのですが、本当の意味で機会均等になるのはずいぶんと先の話です。というか、この文章を書いている今でも機会均等にはほど遠いと言わざるを得ません。日本の政治や経済のトップに女性は殆どいませんし、重要ポストにおける女性比率は非常に低いままです。
さて、その頃の私が日々の仕事の中で男尊女卑的な企業文化を感じていたかというと、それ程でもありませんでしたが、職場によっては「うちは酷いよ」と言っている女性社員も沢山いました。また、バブルが進むにつれて、そのように感じる女子が増えていったのも事実です。
まあ、私自身はマイペースで楽しくやっていましたし、周囲の方々もあまり男女の差なく仕事をさせてくれていましたから、ありがたい事でした。ただ、それは私の周囲だけであって、別の職場へ行くと、結構エゲツない性差別やセクハラもあったようです。海外営業課にはたまたま差別的な人が少なかったという事でしょう。欧米のスタンダードを知る上司が多かったのも要因の一つだったのではないかと思います。
とはいえ、時代はバブルへまっしぐら! 1990年にハジけるまではイケイケです。地方都市にも様々なお店ができ、毎週金曜日は飲み会という感じでした。踊れるお店もありました。
私もそろそろお立ち台に上がっちゃおうかしら・・・。結構、ボディコンも似合ってたんですよ(笑)。