<これまでのあらすじ>上諏訪時計舎あらためサイコーエジソン株式会社7年目のIC営業部海外営業課の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。わけあって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを海外に売っているんですよ。時代はバブルへGo ! ってな感じなので、時にはボディコン姿で踊ったりもしてたんです(うふ)。
第19話 通産省からお呼ばれして行ってきました
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、文系ですが技術製品(半導体)を販売するIC営業部の4ビットAI内蔵営業レディです。私は同期の富夢まりお(トムマリオ)君とともにアメリカ市場を担当しています。なお、トム君は名前の割に純ジャパです(笑)。
上諏訪時計舎あらためサイコーエジソン株式会社として1985年末にリスタートした我が社は順調に業績を伸ばしていました。もともとは腕時計を製造する会社でしたが、その頃になると時計の売上げは10%程度にまで下がり、代わって様々な電子機器、電子部品が売上げの中心となって、年商数千億円の企業に成長していました。それでも、上場はしていなくて、未上場企業の中では大規模な会社でした。大手の電機メーカーはどこも1兆円以上の規模になっていましたので、まだまだのレベルでしたが、気分はイケイケです。何てったってバブルへGo ! の時代でしたから。
サイコーエジソンという名前にはエジソンのように最高の発明をするぞという意味もこめられており、その名の通り、結構ユニークな製品も開発していました。先進的なウォッチとして、テレビ内蔵の腕時計とか、コンピュータ機能を備えた腕時計とかをいち早く開発したりしました。ただ、技術的には素晴らしい製品でしたが、市場投入が早すぎたのか、マーケティングが上手くなかったのか、イマイチ売れませんでした。時代を先取りしすぎたのかも知れません。
私の担当していた半導体事業は、それでも順調に売上げを伸ばしていました。私が担当していたアメリカ市場ではIBM、マイクロソフト、AppleなどがPC開発にしのぎを削っており、新しいOSや新機種が生まれる度に、ICにも新規需要が生まれるという具合でしたので、イケイケの状況でした。
日本の半導体産業がアメリカを抜いて世界1位になる頃にはアメリカの日本に対する嫌がらせ的な動きも始まっており、1986年7月の日米半導体協定によって一応の決着を見たものの、それ以降も、事ある毎に日本企業にはいくつもの試練が課せられました。半導体としては弱小の我が社にさえ、その影響は及び、何回か経済産業省のヒアリングを受ける事になりました。あ、当時は通商産業省でしたね。
「部長、明日の通産省ヒアリングの資料をご覧頂きたいので少々お時間宜しいでしょうか?」
「ああ、舞衣子君、頼むよ」
「はい、この資料に示されている通り、結論的には我々はSRAMのダンピングなど一切行っておりません」
「そうか、それが証明できるならオッケーだ」
「大丈夫です」
「それにしても、アメリカはキツい事を仕掛けてくるなあ」
「ホントにそうです。全く理不尽な感じです」
「円高が進んでも日本企業の競争力が落ちないからなあ」
当時、日本のハイテク産業はイケイケで伸びており、大量生産によってコストダウンも進んでいました。先進国の中では人件費がまだまだ安かったという要因もあります。為替レートは円高に振れていきますが、それでも年々日本企業が頑張るので、アメリカ企業は日本との競争に勝てません。そこで、苦肉の策でしょうが、「日本企業によるDRAMやSRAMのダンピング疑惑」なるものを打ち出して、強い牽制をしてきました。日本企業が市場シェアを奪うためにコスト以下の価格を提示しているという主張です。しかし、日本企業は不当に安値を提示してまでシェアを取ろうとしていた訳ではなく、ただ自然とコスト競争力がついてしまった結果、米国製半導体よりも安値を提示できただけだったのです。
アメリカの主張は、政府ぐるみのイチャモンのようなものでしたが、日本も何らかの落としどころを見つけるしかなく、結果的に一定の割合の米国製半導体購入を義務化するという約束事を飲まざるを得なくなりました。それが、日米半導体協定です。安くて品質の良い日本製半導体を使えば済むところ、日本企業は無理にでも米国製半導体を使う事になりました。
翌日、私は営業部長とトム君の3人で通産省の門をくぐりました。ヒアリングの席に現れたのは予想していたよりも随分とお若い方々でした。まあ、こちらも部長以外はそこそこお若い私とトム君の二人でしたが、通産省のお二人は我々よりももっとお若い方々で、入省2-3年目くらいに見えます。普段結構年上の人たちとミーティングをする事が多い我々は少々びっくりしました。しかし、考えてみれば、日本半導体の1,2を争うような企業でもないので、上の方々が出る必要などない訳でした。それに通産省あたりでは2-3年目の方々はもういっぱしの仕事を任されており、相当優秀な方々のようです。ヒアリングはこちらの主張をそのまま聞いて下さって穏やかに終わりました。
「トム君、若かったよね、あの人たち」
「ああ」
「やっぱ、帝国大学系?」
「まあ、そうだろうな。早慶大とかもいると思うけど」
「トム君の大学の同期とか霞ヶ関にいるの?」
「ああ、何人も入省してるよ。同じゼミの友達では労働省に入ったヤツがいるよ」
「トム君とは出来が違う(笑)?」
「ま、そりゃ仕方ないかな」
「落ちこぼれだもんね(笑)」
「言うな、それを!」
トム君は下から何番目かくらいで卒業しているようです。ま、4年で卒業したところはそれなりに評価出来るようですが、通産省は夢の夢だったようです。
「ねえ、トム君も国家公務員の道を考えなかったの?」
「全然だね」
「なんで?」
「だって、俺が官僚やったら国家の危機だろ(笑)」
「そりゃそうだ(笑)」
「ていうか、俺には真面目系は無理なんだよ」
「それって、我が社は真面目じゃないって事?」
「や、そういう訳じゃないけど(汗)」
「どっちにしろ、国家公務員試験は受からないでしょ?」
「ま、そうなんだけど(汗)」
「ま、いいわ。許してあげる」
「はい、すみません」
「特別よ」
「あああ、舞衣子には叶わないよ。アメリカと闘っているみたいだ(笑)」
「そんなにエゲツナクないですわよ」
トム君とじゃれていると楽しいなあ、といつも思います。
こんなオトボケの会話が出来る人はそう沢山いません。本当は賢い人なんじゃないでしょうか。通産省には入れなかったけど・・・。
ま、でも、彼は人妻、じゃなくて人の夫です。ちょっと残念!
この続きはまた次回お話しますね。