やっつけな日常(98) 膵臓癌になりました。お彼岸、お墓参り、死んだ親父もガンだった、の巻

Joseph Halfmoon

2026年正月休み明けガン発覚。5年生存率データで最悪の膵臓ガン。1月末に膵臓尾部切除術。さて唐突ですが春のお彼岸デス。早々とお墓参りに行ってきました。お墓に入っているのは30年近く前に亡くなった親父です。今更ながら自分もここに入るかと思うと「感無量」。ホントか?お参りしながら親父もガンだったのよのう、と。

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※著者は、医療素人の偏屈な老人っす。事実誤認、認識バイアス、その他おおあり。先にお詫びしておきます。真に受けないでくだされや。

お彼岸

お彼岸期間に入ったばかりというのに早々とお参りに行ってきました。まあ、御中日は混むしね。家から近いので春秋のお彼岸、お盆に加えてお正月にも行ってますが、ちょっちょと掃除して、お花あげてお線香あげて、というくらい。あっと言う間に帰ってきます。しかし今回は「近いうち、ココに入るの俺?」ということで若干の感傷あり。まあ、身体を構成しているカルシウムなどの金属元素の一部の酸化物が格納される、ということなんだが。特に現世に恨みを残して化けて出るような予定もなし。

さて現状お墓に入っているのは実の親父です。まだ要介護のお袋はピンピンしているし。俺のが先というのはなんだかな~

歴史が動く現場を目撃していた?らしい親父

ウチの親父は、ごくフツーの庶民っす。東京の貧しい大工の家に生まれて、自分も大工になって工務店やってました。亡くなったのは約30年ほど前。

親父が少年だったころの思い出を聞いてます。「歴史が動く」現場を目撃していたらしいデス。まずは高等小学校(現在の中学?)の生徒だった頃の話。ある冬の日の朝、自宅から高等小学校へ登校しようとしていた親父(当時はまだ少年だけれども)は、武装した陸軍兵に呼び止められ「子供は家へ帰れ」と言われて学校へ行けなかったそう。2.26事件。事件そのものは皇居の西側から南側付近が中心で、親父が家に帰れと言われたのは不忍池の南側付近。警戒にあたってたのは事件をうけて南下してきた陸軍部隊であったみたい。不忍池から広小路、上野駅にかけて警戒線を張っていたものと見えます。思うに、ちょっと遠巻き過ぎないか?北側から「鎮圧」するなら、神田川くらいまで進出して聖橋とかに検問所おいても良いのではないか?でも、陸軍は意見錯綜していて、場合によってはクーデターに乗りかねない向きの人々もいたらしいから、あまり先走って進出させると妙なことになりかねない、ということだったのかも知れない。

次なる現場目撃はその2.26事件でも出てくる陸軍の参謀本部です。高等小学校を出た親父(まだ少年だが)は参謀本部(三宅坂にあったハズ)で「働いて」たそう。巨大な官僚機構である参謀本部もお役人である以上大量の文書などからは逃れられません。それどころか優秀な(参謀本部に入るような)軍人はすべからく事務能力も卓越していたみたい。コピー機もパソコンやプリンタもなかった当時、各部署に素早く文書を回すためにガリ版(謄写版)がフル稼働していたのだそうな。その参謀本部内部の印刷所?の小僧か丁稚みたいなものになったみたいです。そして毎日大量に印刷される文書を各部署に配って歩くのが小僧だった親父の仕事だったみたい。まさに日に日に戦況は悪化し、各部、各戦線担当の参謀が苦慮していた時期でなかったかと。きっと有名(悪名)な人物にもすれ違っていたハズ。しかし小僧だった親父にも戦況悪化が理解できたのは配ってあるく文書の厚みがどんどん厚くなったためみたい。「戦死公報」とな。徴兵年齢も近くなった小僧だった親父、このままじゃ自分もいずれこの書類に掲載されることになると思ったとか思わないとか。

そこで親父、徴兵年齢前に早々と海軍年少兵というものに志願したみたい。どうも陸軍参謀本部の参謀にもさばけた将校はいたらしく、小僧だった親父に「まだ海軍の方がメシは良い」みたいなことを吹き込んだ人が居たみたい。そこで徴兵前に志願ね。志願兵だといろいろ要望も聞いてくれるらしく、小僧だった親父は木工兵というのを志望して海軍木工学校というのに入ったらしいです。親が大工だったし。死んだ親父によると木工兵というのは「巡洋艦以上の船(以上ということは他は空母か戦艦)に乗って」いろいろ工作したり修理したりする水兵らしいです。一番危ないのが戦闘で損傷うけた浸水箇所などをふさぐ応急修理作業みたい。潜水服きて潜って作業するのだけれど、一歩間違うとお陀仏。

しかし親父が木工学校出たときには乗るフネが無かったらしいです。大戦末期です。帝国海軍の主力艦船は沈んだり、停泊地で座礁したり、石油なくて動けなかったりと壊滅状態。新たな木工兵を乗せるフネなど無かったと。それで航空部隊へ配属されたらしいです。関西の飛行場。ただこちらも迎撃にあげる飛行機も払拭しているような状態ではなかったかと想像。B29が爆撃にくるたびに艦載機(たぶんグラマン)が護衛についてくるけど、相手になる迎撃機もいないから、飛行場を機銃掃射して帰るみたい。その度に防空壕に逃げ込み、空襲終わると出てきて損傷受けた建物、設備を直すといった感じだったと想像。知らんけど。

親父にしてはこの海軍の年少兵だったという記憶は強烈に残っていたらしく、東宝が「海軍特別年少兵」という映画を作ったときには、私も連れられて映画館に行きました。10台の少年たちが硫黄島だかどこかに送られて玉砕するような悲しい話だったと記憶。その映画みて親父が何か言ったか記憶なし。

関西で海軍航空部隊という経験は、親父の食習慣に結構、爪痕残してましたな。普通、関東で肉じゃがというと豚だけれども、家では親父の指示で牛(関西風?)だったし。また親父はやたら「牛肉大和煮」とか「コンビーフ」とか缶詰好んでました。戦前の貧しい職人の家でそんなもの食っていたとは思えないので、これは海軍の糧食の影響かと。

親父は大腸ガンだった

そんな親父が大腸ガンで手術したのは、ちょうど私の今の年齢くらいのときのことです。当時のことにて「ガン」だとは本人には告げず、知っていたのはお袋と私だけです。当時、神田駿河台付近にあった病院に入院した親父は病院食に多いに不満あったみたいで、お袋に指示して鰻とか店屋物を取り寄せて食っていたみたい。主治医の先生がお袋に「いいもん食ってるな~、でも栄養がみんなガンにいっちゃうよ」的なことを言っていたみたい。

親父は手術後5年ちょいは生きたので、5年生存率的にはクリア?でも最後のころはアチコチ転移していてほぼ寝たきりになってました。直接の死因は食べていたケーキ(イチゴショートだったと聞いた)を喉に詰まらせたことでした。

ガンにカッコいい死にざまなど無いと思うけれど親父らしいとは思った。さて、お前はどうよ、と?

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