年末の大掃除とて見つけました。古代の日経エレクトロニクス誌の「ラップトップ・パソコン」に関する記事です。というのもkitsuneno_shippo先生が別シリーズで『世界初発表のノートPCはエプソンです』と書かれていたのに違和感があったからです。エプソンは早い方ではあるけど、最初じゃないようです。ノートPCに関しては。
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「ハンドヘルド」コンピュータ
「持ち運びできる」コンピュータの最初期の成功事例は、1980年代初頭の「Osbone 1」である、という認識です。1980年代中盤にシリコンバレーに居たころ、イケオジでチョイ悪風の風貌(個人の感想デス)のオズボーン氏の写真を拝見して、有名人、と思ってました。ただし当時の「ハンドヘルド」というのはいかにもアメリカな感じです。勝手にかいつまめば
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- 取っ手がついている(ハンドヘルドの必要条件)
- 取っ手を握って車のトランクに格納できる
実際のオズボーン1を触ったことは無いのですが、大きさや重さは「CRTを使っていた昔のオシロスコープ」みたいな感じです。LCDで表示し、LSIで回路が小型化した今のオシロじゃないです。CRT(小型ですが)やら電源回路やら、ずっしり重くて「ひざに載せる」ことなどできない大きさです。でもま、取っ手を掴んで車に載せられれば「ハンドヘルド」だと。米国式だな。
「ラップトップ」コンピュータ
さて本題の日経エレクトロニクス誌1991年6月10日号(今と違って、このころは日経エレクトロニクス誌は隔週発行でした。「電子立国日本」の時代)の141ページ
ラップトップ・パソコンの米特許、基本構造を抑え紛争の火種に
は、現代的な意味での「ノートPC」の源流の話です。ただし、この時点ではノートPCという用語は一般的ではなく「ラップトップ」と呼ばれていました。CRTではない薄型ディスプレイを本体にヒンジで接続し、持ち運ぶときに折たため、キーボードは本体上面にあるという構造です。今のノートPCと同じですな。初期の重さは5kgくらいあったらしいです。でも膝に乗せることは不可能ではないサイズ感。この「基本構成」の特許を取ってしまったというのですからオオゴトです。当時はまだ台湾勢の躍進以前で全世界のパソコンのかなりな数を日本勢製造していたのですから。大慌てになったに違いないっす。
これの基本構造についての特許を米国のGRiD Systems社が取得し、東芝を訴えた、というのが上記の記事の粗筋です。訴えた先は記事の時点で東芝1社だけですが、それは東芝が米国でのプレゼンスがあったためのようです。当時ノートPCを販売していた日本企業は多く、GRiDからライセンス供与を受ける会社、あくまで戦うとする会社など態度が分かれ業界混乱する様が記述されてます。
その記事の中の時間経緯をみると
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- GRiD Systems社の特許出願は1982年10月(実際には4月に製品発表していた。)
- 東芝が米国でT1100を発売したのは1985年4月
- 東芝が日本でJ3100を発売したのは1986年11月
ということみたいです。GRiDの現物写真を見ると、古臭いですが、確かに「ラップトップ」、現在のノートPCに繋がる最初期に登場したことは間違いないようです。
よって残念ながらキツネのシッポ先生の主張に異議を唱えざるを得ません(日本語表示可能なと限定すれば正しいかも。)ただしセイコーエプソンの「ラップトップ」機もNEC PC98のラップトップ機とともに記事にとりあげられており、記事の著者も最初期のプレーヤーの1社だという認識ではいたようです。ただね、キツネのシッポ先生ご指摘の東芝J3100とタッチの差だった「高級」機種ではなく、別なもっと「お求めやすそうな」機種がエプソンの初ラップトップ機種みたいな書かれようでした。ここは日経エレ記事の認識が誤っている?
ライセンス料を払った会社、あくまで戦った会社両方あったようですが、その後の経緯は不明です。ただ分かるのはこの訴訟のころ既にGRiD Systemsそのものは部門ごとに身売されるような状況で、この記事の数年後には最後の残党?が店じまいしたらしいです。知らんけど。苦しくなると日本企業を訴える、というのは当時よくあったパターンだな。。。
その辺の店じまいを考えると訴訟でガッポリとはいかなかったのだろうね。
アスキー「極楽1号」への言及
日経エレ記事の末尾にアスキー(今どきの若者はラノベの会社と思っているかもだけれど、日本のパソコン雑誌の草分けっす)1978年7月号掲載の未来パソコン「極楽1号」のイラストが掲載されてました。勿論実機があるわけでなく、こんなパソコンがあったらよいなのイメージ図です。なんだノートPCのコンセプト丸ごと入っているじゃん!1か所日経エレ記事から引用させていただくと
このイラスト、グリッド特許で参照されたもの。米国特許庁は、このイラストの存在を知りつつもグリッド特許を認めた。
当時のアスキーの先見の明は凄かったのねえ。。。もしかするとその後の特許紛争の中でこのイラストが活躍して食い止めたのかも。公知だと?