<これまでのあらすじ>上諏訪時計舎に就職した詠人舞衣子(よんびとまいこ)。わけあって4ビットAIを内蔵している新人OLです。心理学科卒の文系女子なのに、半導体営業課マイコンチームに配属。どうやら、この会社は4ビットマイコンを開発中らしいです。時代は1980年、ゲームウォッチが流行り始めた頃でした。
第7話 人生谷あり谷あり?
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、文系ですが半導体営業課マイコンチームの新人です。当社で開発したばかりの4ビットマイコンを販売していくのが目標です。
マイコンチームのリーダーから色々なアプリケーションを教えてもらい、我々は自社の4ビットマイコンの販売方針を考える事にしました。我々といっても、リーダーの他は私と同期入社のトム君との二人だけです。
まだまだ新しいこの部署にはあまり多くの社員はいません。しかし、半導体営業課はこれから強化していく部署という事で、新人が5人配属になったという訳です。イケメンの島工作君はメロディICチーム、あとの二人は時計用ICチームと音声ICチームに分かれました。色々なICを売り始めていた頃です。
時計を作るのにも、ICが主要部品の一つだと聞いて、最初はへーっと思ったものでしたが、その原理はかなりシンプルなので、エレキ系素人の私にも分かりやすいアプリケーションであり、それをきっかけにICに関する理解が進みました。マイコンはもう少し複雑ですが、勉強するうちに大体の事は分かるようになっていきました。
当社が開発したマイコンのスペックをよくみてみると、その特徴が分かってきました。基本スペックは先行していたアメリカのテキサスにある半導体メーカー品とほぼ同様ですが、液晶ドライバーが内蔵されているという仕様によって差別化されていました。液晶ドライバーがあると、この4ビットマイコンだけで色々な制御をするだけでなく、液晶に情報を表示する事ができる訳です。
それを何に使うかという事で販売先が決まってくる訳ですが、色々勉強していく中で、二つのターゲットアプリケーションが見えてきました。一つは任天堂ゲームウォッチのようなハンドヘルドの液晶ゲームです。もう一つは家電等の表示付きコントローラです。例えばリモコンです。
その頃の半導体営業課は販売促進体制が整っていなかったため、カタログやマニュアルを自分たちで作らなくてはなりませんでした。原稿は開発を担当したIC設計部に書いてもらうのですが、開発者によって原稿の分かりやすさはまちまちで、中には、ただでさえ難しい技術的な内容なのに、日本語が分かりづらい原稿もあり、校正するのに何週間もかかったりしました。とりわけ、英語版を作った時は苦労の連続でした。リーダーが言いました。
「マイコンチームの真骨頂を見せましょう。英語版のマニュアルを作ります。ボリュームたっぷりですが、分担して英訳しましょう。いいですかぁ?」
トム君が答えました。
「リーダー、一つ質問があります」
「何でしょう。トム君」
「舞衣子は英語が得意なので大丈夫だと思うのですが、ワタクシ富夢まりおは苦手なのです。下手な英語で、意味が分からないマニュアルが出来上がってしまっては困ると思います。我が社にはもっと英語が得意な人が沢山いると思うのです。文書課とか特許課とか、英文科卒の女子とかいますので、社内外注に出すというのはいかがでしょうか?」
「おお、トム君、トム君」
「はい・・・」
「それも良いアイデアかも知れませんが、君は大きな勘違いをしていると思いますよぉ。何事もチャレンジですぅ。楽して稼ぐ事はできません。人生、谷あり谷ありですよぉ」
私は “ん、谷あり谷あり? どこかで聞いたようなフレーズ?” と思いましたが、いつ誰が言ったのか思い出せません・・・。ま、いっか、と思ったところでトム君が言いました。
「うっうっうっ、リーダー、失礼しました・・・人生谷あり谷ありでした。ワタクシ、この前、同じ事を島工作に言われました。甘い事を考えず、谷が続いているつもりで頑張れって事ですね。富夢まりお、勘違いしていました。英語苦手ですが頑張ります!」
そっか、検査課の激励会の前に島工作君がトム君をからかって言ってたんだ、と思い出しました。
「そうです、トム君。気合い入れてトライして下さい」
「はい!」
という訳で、膨大なマニュアルの英訳をする事になったのです。その頃の営業部では何でも手探り、手作りでやっていたので、翻訳専門の業者さんにお願いするという発想がありませんでした。私たちだけでは大変なので、同期の島工作君たちにも頼んで分担してもらいました。
しかし、日本語原稿の主語、述語、目的語などがあちこち抜けていたり、不明確だったりして、全く適切な英語に翻訳されないのです。翻訳コンニャクをもってしても、難しかったに違いありません。
その頃はまだ翻訳コンニャクに匹敵するものはありませんでしたが、その後の世界においては「翻訳コンニャク」ならぬ「Google翻訳」や「ポケトーク」などが人々の生活に入り込み、広く普及していった事はご存じの通りです。改めて、藤子不二雄先生方はスゴイと思いますよね。
どうにかこうにかカタログとマニュアルができて、上諏訪時計舎製の4ビットマイコンは発売になりました。最初はリーダーに連れてもらって様々な顧客へ売り込みに行きました。今になってみると本当に稚拙な営業でした。ターゲット顧客が明確でなく、行き当たりばったりです。たまたま引き合いが来たお客様に対して営業に行くのですが、そこでどのようなアプリケーションでどんな使われ方がされるか十分理解できないまま、聞かれた事に対して答えるだけでした。言われた事だけに対応する御用聞きみたいなもので、やることなすこと受動的で、こちらからの提案はなかなかできないままでした。
その当時はマーケティングという考え方も知らず、営業部の誰一人として科学的に販売方法を考えるという事もなく、何となく、経験に基づいて営業活動をしていました。それをKKDだとか言って冗談まかせていたのですが(KKD=勘と経験と度胸)、今思えば、すこぶるレベルの低い営業でした。せめて、ターゲットアプリケーションを明確にして売り込む顧客を絞り込むべきでした。マーケティングのイロハのSTP(Segmentation, Targeting, Positioning)ですね。
そんな状態なので、ほとんど売り上げもないまま1年ほど経過しようとしていましたが、それでも試行錯誤を重ねつつ売り込み活動を続けていると、ある日我々にも風が吹いてきました。任天堂のゲームウォッチをパクったハンドヘルド液晶ゲームがブームとなり、我々の4ビットマイコンはそれに使うことができると分かって、多くの玩具メーカーから引き合いが殺到し始めたのです。
紙やプラスティックなどの部材と、必要であれば簡単なメカがあれば大抵は作れていたおもちゃのメーカーが、それまで見た事も聞いた事もない半導体や液晶という電子デバイスを使ってゲームを作ろうというのです。そして、マイコンにプログラミングもしなくてはなりません。つまり、玩具メーカーに必要とされていた技術の範囲が急激に変わってしまった訳で、必要とされるエンジニアもメカ系からエレキ系へ一気にシフトしてしまったのです。
全ての玩具メーカーが対応出来た訳ではありません。老舗のおもちゃ屋さんの中には、電子分野へは行かないと決め込んだところもあれば、なんとか無理くりやりくりして素人同然の旧来型おもちゃ職人さんがエレキに挑戦するというメーカーもありました。
任天堂はおもちゃ電子化の先駆けでした。老舗の花札メーカーだった玩具メーカーがその後、すっかり変貌し、世界のNintendoとして驚異的に発展したのです。その姿を見ると、いち早く時代の流れを掴んで業容を変化させていった経営陣の慧眼には感服せざるを得ません。
時代は、ゲーム機に限らず電子デバイスが必須の世界へと変貌していきました。1980年代初頭、中央自動車道がようやく諏訪あたりまで繋がった頃のお話です。