<これまでのあらすじ>
サイコーエジソン株式会社IC海外営業部の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。わけあって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICのアメリカ営業担当でしたが、平成元年になった1989年、とうとう、現地法人のSS-Systemsへ海外赴任しちゃいました。人生ってとっても楽しいかも・・・。うふふ。
第36話 アメリカ生活のセットアップ
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の10年目。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任しました。しかも、同期の富夢まりお君も1ヶ月後にはジョインします。そして、同期の島工作君も赴任中。何てステキ!
子どもの頃、父の仕事の関係でカナダに住んでいた経験のある私ですが、やはり一人で海外に住むというのは大変です。父や母も大変だったのだろうなと今になると思います。
最初にしなくてはならないのは、免許の取得、車の調達、そして住居探しです。
日本と違って車がないとほぼ生活できないので、車を調達します。地元の新聞紙San Jose Mercuryの車広告欄を見て、良さそうな車を見つけ、数多くの車を展示しているディーラー店へ行きます。行きますといっても最初は誰かの車で連れて行って貰わなければ足がありません。それで、工作君に頼んで最初の休日の日にディーラーへ出向きました。中古車は故障があるとイヤなので、少々金額は張りますが新車を購入しました。
自動車産業は、そもそもアメリカのヘンリー・フォードさんがT型フォードという一般向けのモデルを開発したところから始まります。1908年に発売された世界初の大衆車T型フォードは大ヒットとなり、1927年までに1500万台売れたそうです。そして、車といえばアメリカという時代が長く続きましたが、その後ドイツなどのヨーロッパ-メーカーと、トヨタなどの日本メーカーが群雄割拠する時代が訪れていました。
私が赴任した頃のアメリカでは、そのフォード社とGM(ジェネラル・モーターズ)とクライスラーという米国3大自動車メーカーがしのぎを削っていました。これに加えて市場ではベンツなどの高級ヨーロッパ車と、トヨタ、日産などの日本車がすでに売れていました。日本車はその頃には品質の高さが売り物になっていて、米国車の牙城を崩し始めていました。実際、米国車には不良が多く、私も日本車の方が安心かなとも考えましたが、せっかくアメリカに来たんだし、アメ車の方がカッコいいんじゃない?みたいな気分で、新車ならまあ大丈夫だろうと、米国車を手に入れたのです。
私が子どもの頃は日本で外車と言えばアメ車のイメージでした。ムスタングやトランザムなどのアメ車は日本車とは比べものにならないくらいカッコいいと思った時代です。しかし、日本の品質管理が目覚ましく向上したために、カッコいいかも知れないがよく壊れる車と、あまりカッコよくないけどあまり壊れない車とどっちがいいか?という選択がされる時代になっていました。私は子どもの頃からのイメージもあり、カッコいいと思う方を選んだのでした。
アメリカ人の車のセールスマンは大抵みんな口が上手くてお調子者の雰囲気がありました。私の時は慣れている工作君も一緒にいてくれたので大丈夫だったのですが、1ヶ月後に赴任してきたトム君は、セールスマンに、色が違うからとか上手いこと言われて新聞広告に出ている価格よりも200ドルくらい高く売りつけられたそうです。「ま、勉強代だよ」 とトム君は言っていましたが、「私なら絶対許さないからねええ!」 と力んだ事を思い出します(笑)。
並行して住居探しです。これも自分で探さなくてはなりません。San Jose Mercury新聞を買って、不動産の広告欄をつぶさにチェックします。地図を見て、住みたいエリアと照合し、良さそうなら電話してアポを取ります。勿論、間取りや値段など条件をおさえてからです。私の場合は一人なので、比較的簡単に見つかりましたが、工作君やニックは家族用の物件が少なく、探すのに苦労したようです。独身女性の私は第一にセキュリティがしっかりしている事を条件としていくつか物件を見て回り、オフィスから車で20分ほどのところにあるアパートに決めました。通常アパートには冷蔵庫などの家具がついているので、その後の手間は殆どかかりません。アパートでなく、一戸建てなどを借りた家族持ちの赴任者は白物家電やベッドなどを自分で揃えなくてはならず、結構苦労ししたそうです。ま、でも、それも経験ですよね。
私はヤオハンという日本人向けのスーパーでライスクッカーを調達し、あ、炊飯器ですね、自分でご飯を炊く生活を始めました。何と言ってもご飯があると元気が出ますね。お米はカリフォルニア州で大々的に生産されていて、国宝ローズというお米が出回っていました。価格は日本よりも断然安く、味はまあまあでした。
ヤオハンというのは日本のヤオハンがアメリカへ進出した店舗です。今ではヤオハンはイオングループに吸収されていますが、当時は小田原で発祥した八百屋のヤオハンが静岡県を中心として一大グループ会社となっており、アメリカなどの海外でも積極的に展開していました。サンノゼにも1985年にスーパーを開き、業績を伸ばしていました。シリコンバレーへの日本人赴任者が急増していた時代です。ヤオハンは私たちにとってなくてはならない存在でした。
1997年にヤオハンが経営破綻した後、アメリカのヤオハンはミツワという名前に変わって存続しています。
赴任後1~2週間はそれやこれやで殆ど仕事らしい仕事にはなりませんでしたが、まあまあセットアップもとりあえずのところは完了というところです。そろそろ仕事しなくっちゃですね。
この続きはまた次回。