<これまでのあらすじ>
サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを販売する米国現地法人のSS-Systemsへ赴任しちゃいました。食生活の変化で私の見事な肉体は更に水平方向へ成長しつつも、同期の工作君とトム君とも一緒に毎日忙しくやっています。Appleの青井倫吾郎さんとは、二人でお食事を楽しむご関係に発展し・・・。もしかして、近々、婚約発表?
第52話 ボヘミアン・ラプソディと湾岸戦争
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の10年生。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任。美味しい食事の連続で、私の見事な肉体(笑)には水平方向成長化という由々しき異変がおこりましたが、アップル・コンピュータにお勤めの青井倫吾郎さんとは二人で毎週お食事を楽しむご関係に発展し、もしかすると近々婚約発表? でも、その前に確かめなければならない事があるかも・・・。1991年になりました。
1991年に何があったかご存じでしょうか。
11月、フレディ・マーキュリーがお亡くなりになったのでした。そうです、あの 「ボヘミアン・ラプソディ」 などを作曲して世界に知れたクイーンのボーカルです。
彼は当時世界で急速に深刻化していたウィルス感染症であるエイズを発症して死に至ったのでした。日本ではまだ感染者が少なく、それ程深刻に受け止められていませんでしたが、私が赴任したアメリカでは既にエイズの話があちこちで聞こえていました。サンフランシスコやサンノゼのあるベイエリアにはエイズが蔓延し始めていて、我々の生活圏にあるカイザー・ホスピタルには患者が相当数入院していると言われていました。
いつの世も、得体の知れない病気は誰をも不安にさせます。当時、エイズについては、「ウィルスによる病気で、輸血や性行為などによって感染する」 くらいしか一般には知られておらず、治療薬、治療方法もない不治の病のように認識されていました。患者に触れただけで感染するとか、同じ食器を使っただけで感染するというような誤解も生んでいましたので、近くの病院にエイズ患者がいるというだけで、恐怖感を抱いたりしました。いったん罹患したら、いずれ命を失うしかない病気だと思われていたのです。
SS-Systemsの日本人赴任者で私の後輩の住友直太朗君はクイーンの大ファンでフレディを信奉していました。私も彼の家にお邪魔した時に、何度もクイーンのビデオを見せられました。確かに、フレディは強烈で、あの独特な容姿と歌声は人々を魅了するものでした。ニック(住友直太朗君)はいつも 「クイーン最高!」 と叫んでいましたっけ。
そのフレディがエイズで命を落とした後、ニックは暫くの間、元気がありませんでした。もし、あの頃に治療法が確立していれば、フレディもいまだに音楽活動を続けていたのではないかと思います。残念な事です。
しかしながら、あの出来事によって、エイズが世界中に知れ渡り、その正体や予防法の認知が加速していった点では、ポジティブな効果があったとも言えます。そして、フレディはあの出来事によって伝説の人となり、後の2018年に 「ボヘミアン・ラプソディ」 という名画を生み出しました。彼は映画によって蘇り、まるで生き返ったかのように世界中で人気を博したのは記憶に新しいところかと思います。
私も2018年の封切りの時は、映画館に足を運んで 「ボヘミアン・ラプソディ」 を観ました。改めてフレディのスゴイ生き様を感じて、エンドロールが終わってから暫く席を立てませんでした。因みにニック君は「ボヘミアン・ラプソディ」を5回観たそうです。
1991年に話は戻ります。
1991年は湾岸戦争が起こった年です。前年からのイラクによるクウェート侵攻を看過できないとして、1月に国連が多国籍軍を創設してイラク攻撃を開始し、結果、4月にイラクが停戦勧告を受け入れる事になったという戦争です。
1月17日、アメリカのSS-Systemsで仕事をしている午後の時間に、緊急のニュースがあるからと言われて、会社に設置されていたテレビを従業員とともに見ていた事を思い出します。イラク空爆を開始した、という湾岸戦争開始の会見をブッシュ大統領がしていたのでした。この国では戦争を当たり前のように行うのか、と気持ちがざわついたのを覚えています。
その後、イラク大統領であったサダム・フセインとアメリカが2003年までドロ沼の争いを繰り返した事、その影響もあってか、イラク、シリア周辺が酷い混乱に陥り、ISという狂信的な集団ができて、世界的なテロが起こった事など、一時的な争いでは収まらない混乱が続きました。その間、2001年にはアメリカで同時多発テロ事件が起こるなど、欧米と中東の間には日本人の感覚では分からないような争いがいくつも起こったのです。
地政学上、日本は少々離れた位置にあって直接的な被害もありませんでしたから、肌感覚では分かりにくい話だと思いますが、私は、少なくとも湾岸戦争勃発の日に戦争当事国にいたので、ほんのちょっとだけ、日本に住んでいたであろうよりは怖い気持ちを感じたのだろうと思っています。
この年、湾岸戦争の一方で、東西冷戦は収束の方向に動いていきました。ソ連は完全に消滅し、覇権主義から後退した感のあったロシアはアメリカとの間で融和的な関係を模索するようになっていました。ただ、ロシアもゴルバチョフの頃こそ、そんな風に見えましたが、その後の指導者の中にはどうやらそうでもないように思えるトップもいます。
人の欲望、国家の欲望には際限がありません。人々にとって良い結果をもたらすのであれば、欲望も動力源になっていいのでしょうが、そうでなければ欲望はコントロールする必要があります。私がアメリカで感じたざわざわ感は、それぞれの欲望がぶつかり合う中、人々にとって良い結果をもたらさないであろう「戦争」の開始を一国のトップが国民に対して発表するという現実を目の当たりにした時の気持ちの悪さだったのだろうと思います。
そんなこんなの1991年、社会情勢的な不安は少々ありましたが、私自身はほぼ絶好調と感じていました。だって、仕事は楽しくて、アメリカ生活も楽しくて、ステキな青井倫吾郎さんともイケてる感じでしたので・・・。
あら、今回も電子デバイス産業の栄枯盛衰については殆ど触れられないままでしたね。
どうしましょ。
この続きはまた次回です。うふっ。