連載小説 第147回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

Momoe Sakurada
ペンネーム
桜田モモエ

<これまでのあらすじ>

サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品の営業に携わっています。10年近くに及ぶ海外赴任(アメリカ、ドイツ)を経て、今は東京から海外市場をサポートしています。インターネット、IT機器、携帯電話など新しい技術や製品が日々生まれ、それらをサポートする我々の電子デバイスビジネス(半導体、液晶表示体、水晶デバイス)も大忙しですが、台湾や韓国などの新興勢力も台頭してきて、日本の電子デバイス業界も大きな影響を受けていました。

(日本半導体の栄光と挫折?『詠人舞衣子』総目次はこちら

 

第147話 ブラウン管テレビと薄型テレビ

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の24年生。文系ですが技術製品(半導体などの電子部品)の営業に携わっています。10年にわたる海外赴任生活(アメリカ、ドイツ)を経て東京勤務中。世界のIT産業はどんどん変化していくので、ビジネスも大忙し。我々の半導体の売上げも2000年にはサイコー!だったのですが、その後、状況は変化していきました。もう2003年です。

 

 

いよいよ第147回です。いよいよだ、などと言う程のキリにいい数字ではないと思われる方も多いかと思いますが、147は、そうです、麻雀という中国由来の卓上ゲームにおいて大事にされている3つの筋の一つです。

実は、実家の電話番号に1と4と7が並んでいて、「イースーチーは舞衣子の幸運の筋」と学生時代から言われていたものですから、今でも、好きなナンバーなのでした。それで、ついつい、いよいよ147回だなどと言ってしまったという訳です。どうでもいい話でしたね。すみません(笑)

さて、2003年とはどんな年だったのでしょうか? この大河小説第147回を書いている今日この頃から言えば、20年前の事です。

イラク戦争が起こった年です。イラクが大量破壊兵器を保持しているとして、米英がイラク侵攻した事件です。イラクのトップであったサダム・フセインを悪の根源として政権崩壊に追い込み、最終的にフセインを処刑するに至るのですが、結果的に大量破壊兵器なるモノは発見されず、中東を長きに渡る混乱に陥れたアメリカの大失敗だったという見方が多いのではないかと思います。

いつの世でも、権力者の愚行の犠牲になるのは、何の罪もない一般市民です。どれだけの過ちを繰り返せば、人類は学ぶのでしょうか。我々の生きている時代は、それでもましな方だと言われる事もありますが、過去の経験値が歴史上最も高いのがその時代ですから、愚行が繰り返されてしまうのは何かメカニズム的に間違っているように思えます。毎年改善されて然るべき事なのだと思うのですが、いかがでしょうか。

エレクトロニクス分野に目を向けてみましょう。2003年のヒット商品を見ると、薄型(液晶・PDP)テレビが上位に入っています。ご存知の通り、テレビという文化は我々に非常に大きな影響をもたらしましたが、その技術も日進月歩でした。

1897年に、ドイツのブラウンさんが陰極線管(cathode-ray tube, CRT)というのを発した事に端を発します。電子銃から電子ビームを蛍光面に照射し、発光させて図像を表示するという真空管を応用した装置だそうです。

CRTというと、おお、それはパソコンのあれでは?と思われる方もいらっしゃるでしょう。そうです、かつて主流であったパソコンの表示装置です。今では、ほぼ全て液晶に置き換わってしまいましたので、CRTという言葉を知らない方も多いかと思いますが・・・。

日本では、そのブラウン管技術を放送と組み合わせて、テレビ受信装置に仕上げたのが、1953年の国産第1号の白黒テレビ(シャープ製)です。この年、同時にNHKの放送も開始されました。

欧米の方が少し早かったようですが、日本にもとうとう、テレビの時代がやってきたのでした。因みに、当時の受信料は月200円だったそうです。まだ、私は生まれていない時代の出来事ですね(笑)

テレビは高額だったので、当時の日本では、それなりに裕福な家庭にしかテレビはありませんでした。冷蔵庫やエアコンといった製品であれば、その家庭だけで利用するというのは普通でしょうが、テレビは違いました。当時の日本では、近所にテレビのある家があれば、みんな上がり込んでテレビを見るといいう事が当たり前だったようです。或いは、電気店とかに陳列されているテレビの前の道路いっぱいに近所の人や通行人が群がるというのが、よくある光景として記録映像に残っています。昭和初期の日本ですねえ。

人気の番組はプロレスだったというのですから、何だか時代を感じますが、力道山が悪役レスラーを倒すのを街中の全員が応援するというちょっと笑ってしまうような光景があちこちに広がっていたようです。

1960年になってカラーテレビが発売された事もあいまって、テレビは次第にかなり多くの家庭に普及していきました。何か大きなイベントがある毎に、今年の紅白歌合戦はカラーテレビで見よう、みたいな広告宣伝が打たれ、私の実家でも、1964年の東京オリンピックに間に合わせて、カラーテレビに買い換えたような記憶があります。あれ?1972年の札幌オリンピックだったかな? まあいいでしょう(笑)

日本の家電メーカーは競って新しいテレビを開発し、高まる需要に応えていました。価格もどんどんこなれていって、私が就職した1980年頃には、誰でも手に入れる事ができる家電のようになっていました。

ブラウン管テレビの一番の問題は、サイズが大きい事です。現代の若者にブラウン管テレビとか言っても、何の事かと思われるかも知れませんが、ブラウンさんが発明したブラウン管は、どうしても原理的に奥行きが必要で、画面の大きさを一面とした立方体のような大きさになってしますのです。

これを画期的に変えたのが、薄型テレビでした。液晶またはPDP(プラズマ・ディスプレイ)という表示技術で置き換えると、装置全体を大幅に薄くできるのです。これは画期的でした。かつての家庭をご存知の方であれば、いかにブラウン管のテレビが巨大で、居住スペースを激しく侵食していたか(笑)、共感されるのではないかと思います。パソコンのCRTも同様でしたね。

世間のテレビは、徐々に薄型テレビに置き変わっていくのでしたが、ブラウン管テレビが作動する間は、すぐに高額な液晶テレビに買い換えるという訳にもいかず、価格がこなれてから買い換えるという人も多かったと思います。

奥行きのためにスゴくボリューム感のあるテレビやパソコン、懐かしいですねえ。引っ越しのたびに大変だった事を思い出します(笑)

省スペース、省エネなど、あらゆる点で薄型の新技術が勝り、ほぼ全て置き換わってしまいましたが、ブラウン管テレビは50年ほどの長きに渡り、主役で有り続けたのでした。昭和から平成にかけてのお話しです。

 

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