L.W.R.(49) PC DOS J6.1/V、平成5年(1993年)、IBM

Joseph Halfmoon

前回は昭和の古文書でしたが今回は平成です。「今時の若者は知らん」でしょうが、平成の御代の初めころ、日本のパソコン業界に一大変化をもたらしたOSにDOS/Vというものがありました。PC-DOS(MS-DOSをIBM社ではこう呼んでました)の「1変種」であったのですが、日本の業界にとってはペリーの黒船のごとき存在でした。

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DOS/V以前

最初期の「パソコン」はハードウエアの電源をONするとBASICインタープリタ(ROMに格納されている)が走り出すというスタイルでありました。アプリケーション・プログラムは自力でBASICで書いてね、というスタンス。各社同じようなハードウエア構成だけれども、互換性の無いBASICインタプリタを搭載したパソコンを出荷してました。

それに変化が起こったのは外部記憶装置、「フロッピーディスク」というものが一般化された後です。BASICインタープリタからフロッピーを直接扱うこともできましたが、フロッピーディスクからOSを立ち上げ、その上でアプリケーション・プログラムを動作させるようになっていきました。8ビットCPU(Z80が代表選手)を使用した初期のパソコンでは、今はなきデジタルリサーチ社のCP/MをOSとするものが多くありました。しかし16ビットCPU(8086/8088が代表選手)の時代となりOSはマイクロソフトのMS-DOSが主流となります。勿論、デジタルリサーチ社もCP/M-86という8086/8088用のOSを出していたのです。IBM-PC向けに出荷するにあたってデジタルリサーチ社は結構良いお値段をつけ(実績あったもんね)、巻き返したいマイクロソフト社は実績のないMS-DOSを「お求めやすい」お値段で出したので、MS-DOS(そのIBM版はPC-DOSと唱えます)が主流になったとか。なおMS-DOS自体はマイクロソフト社開発ではなく、「近くの会社」の製品を開発者ごと買収、「MS」の名をつけて急場間に合わせたという噂っす。

さてパソコンと言えば、MS-DOS(IBM製品ではPC-DOS)上で、表計算ソフト(代表選手はLotus1-2-3)を走らせるという雰囲気だった1980年代後半。同じ8086系(NEC-V30は命令互換性あり)CPUで、OSはMS-DOSを使っているのに日米のパソコンハードウエアには決定的な違いがありました。表示部分です。IBM-PCを代表とする米国系のパソコンは英数字と「僅かな記号」を表示するために小規模なCG(キャラクタ・ジェネレータ)を搭載した表示回路を使っていました。一方、NECのPC-9801系に代表される日本製のパソコンは、英数字などのキャラクタとは別にJIS第1、第2水準くらいは当たり前のかなり巨大な漢字ROMを搭載して日本語表示を行っていました。それもあって、日米のパソコン業界の間になかなか「越えられない」障壁があったのでした。

しかし、1980年代後半、IBM PC(実際にはPC/AT)互換機の大波がやってきます。「猫も杓子も」PC/AT互換パソコンを作れるということになり、互換チップセット・メーカが乱立、DELLやHPなど今にいたるも活躍している IBM PC互換機メーカも次々とあらわれます。そこでは台湾中心にマザーボード、周辺回路などの量産体制ができあがり急速に価格低下が始まってました。

当時の日本は今とは違います。世界の電子工業の半分を担うくらいの力があった時期です。こと国内パソコンに関しては「日本語表示」の障壁があったので、IBM PC互換機とは一線を画して独自の道(実際にはNEC PC-9801の一人勝ち)を歩んでました。勿論、海外向けは国内とは一線を画してIBM互換ね。

DOS/V登場

そんな中、IBMから1990年11月に発表されたのが、IBM DOS J4.0/V です。このOSの最大の特徴は、PC/ATとその互換機上で日本語用の漢字ROMが無くても日本語表示ができる、ということでした。なんのことはないです。ハードウエアのCGを使って文字表示をするのではなく、ビットマップ・ディスプレイ上にソフトウエアで文字フォントを展開して表示する、というデバイスドライバを使っただけです。ただ、PC/AT以前のCPUでは速度的、搭載メモリ量的に難しかったものが、PC/ATの80286以上のCPUではソフトウエアに任せてもストレスを感じない程度に速くなった、ということにすぎません。最初期はハードウエアスクロールにくらべるとDOS/Vの表示は遅かった印象がありますが、CPUクロックは直ぐに上がっていったのでそのうち気にならなくなりました。また、PC/AT互換機ではVGAというディスプレイアダプタが人気で640×480ドットのビットマップ表示がほぼ標準化していたことも理由の一つです。これを使えば、16ドットまたは12ドットなどの漢字フォントの表示が十分実用になったからです。

ここでNEC以外の日本のパソコンメーカ各社は色めきます。いままでNEC一強で他は泡沫(失礼)であった国内パソコンでNECに一矢を報いる機会とばかり、IBMがDOS/V発表の2か月後に発表したOADG(Open Archintecture Developers’ Group)という団体にこぞって参加します。そしてDOS/VをOSとして採用したパソコンに進出するのです。自社独自のハードウエアでなくPC/AT互換機の「安い」ハードウエアを組み立てて「多数のアプリケーション・ソフトウエア」が即利用可能なパソコンを販売できるっと。黒船到来。

正直5年のDOS/Vの栄華

ここにおいて1強NECは押される立場になった、のかどうかは知りませぬ。しかし、98シリーズの終焉を見れば世の流れは分かりますな。しかし、DOS/V自体、海外のPC互換機を日本にもたらす「繋ぎ」の役割になっていたのでした。1995年、Windows95の登場です。それまでもWindowsはあり、フツーのMS-DOSやDOS/V上でWindows3.xなどを使うなどしてました。しかし、主役はDOSでWindowsは「チャラチャラ」したところを担っていた感じっす。何かあると頻繁にDOSに「降りる」必要がありました。しかし、Windows95の登場以降、全てはWindows内で閉じている(実際にはDOS相当の機能は内部に残ってはいる)ように見え、DOS/Vを買ってきてインストールして使うなどということは無くなりました。

アイキャッチ画像に掲げたマニュアルは、多分DOS/Vが短い栄華を極めていたころのDOS/V第3世代のころのものではないかと思います。ちらちら眺めてもそれ以前のDOSなどとは一線を画す機能多数。当然、初期のDOSとは異なり基本ハードディスクベースです。勿論1Mバイト以上の拡張メモリの使用にも抜け目はありませぬ。一時の栄華も今では忘れられておるぞよ。

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