<これまでのあらすじ>
サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを販売する米国現地法人のSS-Systemsへ赴任しちゃいました。お仕事は毎日忙しくやっているんですけど、運命の人、Appleの青井倫吾郎さんと、とうとう結婚しちゃいまして、もう1年経ちました。結婚生活ですか?順調です。ステキです。うふっ。1993年を迎えましたよ。
(日本半導体の栄光と挫折?『詠人舞衣子』総目次はこちら)
第71話 まだまだイケるでしょニッポン!
私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の13年生。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任。美味しい食事の連続で、私の見事な肉体(笑)は水平方向へ更に見事な成長をとげたものの、アップル・コンピュータの青井倫吾郎さんと遂に結婚しちゃいました!ステキです。うふっ。1993年になりました。
倫吾郎さんと二人で日本へ里帰りしている最中です。元旦を迎えました。おめでとうございます。
1993年といえば、こんな年と思い出される方も多いかと思います。
なんと言っても小和田雅子さんですね。私たち、女子からしたら、なんてカッコいい女性なんだろうと思いました。え、ご存知ないですか?ハーバード大学を経て東大卒の外務省バリバリキャリア官僚ウーマンです。才色兼備とはこの方の事かと思いました。私もまあ、ご幼少の頃(うふっ)、海外(バンクーバー)で暮らしていた事もあり、早慶大卒で上諏訪時計舎に入って、そこそこイケてたとは思うんですけど、流石に雅子さんには及びませんでしたねえ(笑)。
で、その雅子さんは当時の皇太子さま(令和の天皇です)に見初められて6月にご結婚なさったわけですね。雅子さまとお呼びするべきお方となりました。
婚約会見の席で、「雅子さんのことは一生全力でお守りしますから」 と皇太子さまに言って頂いて、あら羨ましいなどと思いましたね。そう言えば、倫吾郎さん、私に「舞衣子さんのことは一生全力でお守りしますから」などと言ってくれたかしら? まあ、いいです(笑)。とにかく、私たちとそう年の違わないお二人が一緒になってロイヤルカップルが生まれたのが、この年でした。
ところで私、日本の詳細事情について、この頃の事は実は良く分からないのです。日本で生活していなかったからですね。海外赴任者あるあるだと思うのですが、日本を離れていた数年間の事だけが実体験の中から欠落しているので、他の人が当たり前的な前提で話す事に対して、当たり前的な反応ができず、「え、それ何?」的な反応を返してしまって、「え、知らないの?」みたいな事になるという事態がしばしば起こりました。
ロイヤルカップル誕生、全力でお守りします、の件などは、アメリカにいてもかなりの密度で伝わってくる話なので、当たり前的に知っている話に昇格します。しかしながら、この年、Jリーグが開幕しただの、ドーハの悲劇が起こって、日本がワールドカップ出場を逃しただのの事は、何となく伝わってくるものの、実感を伴った情報にはなっていないのです。なので、時々日本へ出張して居酒屋へ行った時など、酔っ払った若者たちがすさまじい勢いで「お~れ~おれおれおれ~♪」と唄い叫んでいるのを耳にして、一体、俺がどうしたんだ?と素ドーハの悲劇直に疑問に思ったりもしたのでした。
日本の世界遺産が初めて登録されたのもこの年です。法隆寺、姫路城、屋久島、白神山地でした。
さて、半導体産業はどうだったかといいますと、世界半導体シェアで日本が再び米国に抜かれ、更に、日本以外のアジアメーカが躍進をし始めるという転換期でした。
大きな設備投資を含む新たな事業戦略の推進が遅れたというのが一番の原因だったのだと思いますが、日本半導体メーカーのシェアは1988年をピークに減少し始めていました。特にPCやIT関連機器が大きな市場となった1990年代前半ではCPUやペリフェラルIC、ネットワーク用半導体の伸びが大きく、価格変動の激しいメモリICに大きく依存していた日本メーカーは苦戦を強いられていました。円高による競争力の低下もありました。
一方、IntelがCPUを中心に大きく業績を伸ばしたこともあり、1993年には半導体生産でアメリカが再び世界のトップとなったのでした。Intelはその後ずっと業界トップに君臨する事になります。またDSP、MCU等で業績を確保したTIが業績を伸ばしました。
1988年のピーク時には世界の52%に達した日本半導体生産シェアは、1993年には40.%、更に1999年には28%にまで減少しました。半導体メーカトップ10では1989年では10社中6社が日系メーカーで占められていたが、2000年には3社にまで半減したのです。
この頃、台頭し始めたのが、韓国や台湾です。国家プロジェクト的に力を入れたDRAMの生産やシリコンファンドリーなどで韓国、台湾等の半導体メーカーの成長が始まりました。しかし、当初は日本の半導体産業とはまだ大きな開きがあり、その後に韓国、台湾が日本の脅威になると予想して対策を講じる事ができた日本の半導体メーカーは殆どなかったと言っていいでしょう。また、日本国としても未来を見据えた対策ができていたかというと、そこそこ色々考えてはいたのでしょうが、結果的に世界の半導体市場で勝ち抜いていく事になりませんでした。アジア諸国に対しては未来永劫、日本の優位性が保たれるかのように錯覚していたのだと思いますが、その後のトップはIntel(米), Samsung(韓国), TSMC(台湾)等となるのです。日本メーカーはトップ10にも入れない時代が来ようとは誰一人思っていませんでした。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、なのでした・・・。