連載小説 第75回 4ビットAI内蔵 “詠人舞衣子” の思い出

Momoe Sakurada
ペンネーム
桜田モモエ

<これまでのあらすじ>

サイコーエジソン株式会社の詠人舞衣子(よんびとまいこ)です。訳あって4ビットAIを内蔵しています。心理学科卒文系女子ながら先端技術製品のICを販売する米国現地法人のSS-Systemsへ赴任しちゃいました。運命の人、Appleの青井倫吾郎さんと、とうとう結婚しちゃいまして、うふっ、楽しいです、仕事も生活も。半導体事業も絶好調ですよ。

(日本半導体の栄光と挫折?『詠人舞衣子』総目次はこちら

 

第75話 トム君がIntelに乗り込んだよ 

 

私、詠人舞衣子(よんびと まいこ)は、サイコーエジソン株式会社の14年生。文系ですが技術製品(半導体)を販売するアメリカの現地法人SS-Systemsへ赴任。アップル・コンピュータの青井倫吾郎さんと遂に結婚しちゃいました!ステキです。半導体事業は絶好調です。世界1の半導体メーカーとも対等に渡り合っちゃったりして。うふっ。

イケイケの半導体事業部でしたので、ICを作るだけじゃなくて、カードサイズのPCなんかも作っちゃったわけです。ICを使った応用製品ですね。応用製品を作るという事は完成品メーカーに近づいた?となる訳ですが、そこは販売ルートも違ったりするので、半導体事業部の製品はまだまだ半完成品的なものです。売り先はやはり完成品メーカーとなり、相変わらずB to Bのビジネスです。

さて、カードPCにはIntel入ってるのです。386ですね。Windows3.1で動くのですね。もう歴史ですね。誰も386とか3.1とかもう知りはしないでしょうが、その頃はそうだったのです。

その当時、我々の半導体事業部長は、後にサイコーエジソン株式会社の社長となる方で、イケイケの権化のようなお方でした。どんどん新しい事にチャレンジしていくのでした。カードPCのような新規製品を立ち上げたのもその一つでした。また、事業拡大の波の中で半導体の新工場を作るため、大手顧客から資金提供してもらったのも事業部長の功績でした。

イケイケなので、全く臆する事なく世界1の半導体メーカーの社長とミーティングを持つ事になりました。そうです。Intel様です。だって、カードPCという製品によってサイコーエジソン株式会社はIntelのCPUを使う顧客となっていた訳ですからね。

その打合せにはサイコーエジソン株式会社の社長を引き連れて半導体事業部長がいらっしゃり、カードPCの開発者である三二村さんも出席して技術的なプレゼンをしていました。

Intel様からは当時のトップであるAndy Grove社長を筆頭に幹部の皆さんが出席し、社長同士のトップ会談となったのでした。SS-Systemsからはダニエル社長とトム君も同席させて頂きました。

Andy Groveさんと言えば相当な方でして、フェアチャイルドからスピンアウトしたノリスさんとムーアさんに次ぐ3代目CEOです。ハンガリーから命からがらアメリカに亡命してきた人ですが、アメリカの大学で学び、アメリカンドリームを実現した方です。

1979年に社長昇格。当時は、メインフレームに搭載されるDRAMがインテルの稼ぎ頭でしたが、1985年にDRAM事業からの撤退を決断し、CPUを主柱事業としました。安価で高性能な日本のDRAMが世界を席巻するのを予見していたのでしょう。市場の変化を敏感に察し、強烈な個性で事業を大胆に変革し、インテルをIT業界のトップ企業へと導いた慧眼の持ち主ですね。

その先見の明の通り、その後IBMのPCにIntelのCPUとMicrosoftのOS(MS-DOS)が採用された事で、世界の勢力図が固まった事は皆さんご存知のとおりです。

1987年には社長兼CEOに、1998年には会長兼CEOに就任しました。スティーブ・ジョブズなどシリコンバレーの後進経営者に多くのアドバイスを与えたことでも知られていて、1997年にはTime誌の「Man of the Year」にも輝いています。

そんなスゴいお方と平気でミーティングをしちゃうサイコーエジソン株式会社も大したものでしたねえ。トム君によれば、Andy Groveさんは打合せが始まるとすぐにクッキーを手に取って食べ始めたそうです。何となく、さすが感が漂っていたそうでした。

打合せが終わった後には、ナイスなレストランでディナーまでご一緒にしたのでした。その席にはIntel Japanからも何人か同席し、大変賑やかで大きなテーブルだったそうです。

Intelにしてみれば、サイコーエジソン株式会社が組み込み市場でもIntelのCPU販売を更にアップしてくれるパートナーとしてカードPCに期待してくれたのでしたが、果たして販売数量アップにどれだけ貢献できたかというと、実はそれ程ではありませんでした。デスクトップやNote PCに使われるのなら数多く売れたのでしょうが、我々の製品は、小さい、低消費電力、設計に手間取らない、というようなニッチマーケット向けの特殊製品で、数は多くないのでした。まあ、ナイストライだったのですが、Embedded商品はなかなか難しいなあと今更に思い起こされます。

因みに、なにゆえ386だったの、486もPentiumも出たのに?ですか。それは、遅い方が低消費電力だったからですね。それと、386シリーズには派生商品としてもっとカードPCに適した「Hachidori」 というバージョンもありました。

「Hochidori」は、Intelが組み込み市場もx86で席巻しようとして開発したCPUです。サイコーエジソン株式会社の他にも多数の組み込み屋さんがトライしたのでしたが、大当たりしなかったため、組み込み業界の時間軸で考えると「あっという間」の短期間でディスコンになってしまった悲しいCPUです。

ディスコンで困っちゃった組み込みやさんも多数いたでしょうが、もうやんないとIntel様が仰れば、それに従うしかないのが業界の力関係でした。なかなか厳しい業界なのです。

トム君は午後3時からの打合せの間も、5時半からのディナーの間も殆ど大した事はできなかったそうですが、業界の大人物との会合に同席できたのは素晴らしい経験であったと言っていました。その経験の割にその後も大した事をしていないようにも思えますが、ま、いいでしょう。トム君はトム君ですから(笑)。

我々がスゴい人たちと対等に渡り合っていた(と錯覚していた?)頃のお話です。

もうちょっとだったんだけどなあ(笑)

 

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